クイズ 「三国志」 興亡史全200問
三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。
「三国志」とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書である。撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。
『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。
養老4年(720年)に成立した『日本書紀』神功皇后紀には、自注として『魏志』東夷伝の卑弥呼・台与の記述が引用されている。
天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には、蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。
天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして、吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。
『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769年)10月10日の条に称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。
藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。
『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。
中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した。
林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられた[2]。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)もこの伝統を踏まえたものである。
明治以降の正史に基づいた史伝で、内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川英治『三国志』などの急速な普及で三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であった。
状況が一変したのは、井波律子・今鷹真・小南一郎による完訳版『世界古典文学全集24 三国志』(全3巻、筑摩書房 1977年 - 1989年)、改訂再刊されたちくま学芸文庫判(全8巻、1993年)の普及により、幅広い世代の三国志愛好家が正史を読めるようになり、多くの読者が『三国志演義』による固定化されたイメージに疑問を持つようになった。これ以降、正史を基礎とした解説書が多数出版され、漫画やゲームなどにも正史を基にした作品が現れるようになった。ただし、これらの作品はいずれも横山三国志(漫画家横山光輝)など従来の演義ベースの設定に拠っている部分も多く(特に人物の外見や武具など)、純粋に正史に基づいた作品というよりは、演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したという意味合いが強い。